1999年、事故原因としてはあってはならない種類の原因で、わが国の核燃料加工工場で事故が発生した。平成時代の異常な日本を象徴するかのような東海村臨界事故だった。事故発生時にチェルノブイリ事故影響調査のためベラルーシにいた筆者ではあるが、帰国後直ぐに、ポータブルラボを持って東海村を調査した。
私の調査の視点は、周辺住民の被曝線量調査にあった。10月23日の朝、東海村中央公民館に集まった。その最初の会議の席で、事故当日、茨城県警警ら隊のパトロールカーに同乗し、JCO工場周囲のガンマ線線量率を複数の地点で測定したデータの報告があった。茨城工業高等専門学校の松沢孝男博士によると、西側県道に放射線が特に強い場所があったという。
そこで、菅慎司、北川和英の二名の技官とともに、その地点を中心に放射線計測を実施した。JCO境界壁を中心に、各種放射線のサーベイを行なうとともに、至近の住宅街を訪問した。弱い放射線ではあったが、約800メータに及ぶ敷地境界壁で敷地内の建物構造の配置と相関した顕著な方向分布が直ぐに判明した。
ウラン沈殿槽から住宅街へ漏えいした中性子およびガンマ線の強度は、方向により大きな差があった。工場内の建屋の構造やその配置の差により、放射線が大きく遮へいされたり、逆にほとんど無遮へいで漏えいした方向があったことが、筆者らの調査から判った。南西方向の至近住宅街は工場の建物にかなり遮へいされていたのは、不幸中の幸いだった。西側350メートル圏内住宅41軒の屋内線量値の最大は3ミリシーベルト、平均0.7ミリシーベルトと推定した。