代表の高田純は世界の放射線被曝地を調査した。チェルノブイリ、セミパラチンスク、南ウラル、ロンゲラップなどの核災害地を歩き、独自の方法で計測し、放射線衛生を調べた。
広島、長崎とも、都市の約500m上空で核爆発を受けた。両市とも半径2キロメータ圏内は爆風と熱線で壊滅した。爆心付近では核分裂連鎖反応から発生した、高エネルギーのガンマ線と中性子が、その直下にいた住民の放射線被曝の原因となった。
ソ連の主な核兵器実験場は、北極圏ノバヤゼムリャとカザフスタン共和国のセミパラチンスクである。連邦全体で計969回、総出力285メガトンの爆発試験が実施された。ソ連が崩壊し、1991年に独立したカザフスタン共和国は、自国民の被曝調査のために、この実験場および周辺を外国人科学者へ公開した。
核兵器開発の最中、ソ連の兵器用プルトニウム生産拠点周辺で、核廃棄物公害等により周辺住民に甚大な体内汚染が発生した。特にテチャ河の核汚染による流域住民のストロンチウム90による内部被曝は世界に他の例をみない災害となった。高田純は、2000年4-5月に現地を調査した。
1999年7月に、高田は、このビキニ水爆で発生した多量の放射性物質により被曝し、汚染した悲劇の島・ロンゲラップを調査する機会に恵まれた。島民たちは、1957年に、米国の安全宣言を受けて一度は帰島したが、その後、放射線を恐れて、1985年に島を脱出した。1998年再定住計画が米国との間で作成され、それに向けての工事が開始された。
二十世紀最大の原子力発電所事故のあった1986年は、世界で最初にウランの連鎖反応の実験を成功させたシカゴ大学に滞在していた。原爆放射能医学研究所から、チェルノブイリからの放射性フォールアウトが日本へも届いているとの手紙を受け取ったが、まさかその後母校へ戻り、自らが調査をすることになるとは思いもしなかった。
1999年、事故原因としてはあってはならない種類の原因で、わが国の核燃料加工工場で事故が発生した。平成時代の異常な日本を象徴するかのような東海村臨界事故だった。事故発生時にチェルノブイリ事故影響調査のためベラルーシにいた筆者ではあるが、帰国後直ぐに、ポータブルラボを持って東海村を調査した。